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「百聞は一見にしかず」だけど、目に力を与えない在り方をしよう!
ONENESSに還ろう- I am Healing 通信 vol.121
目で見るだけでなく同時に自分の感覚すべてを動員して世界を感じてみる。きっと美しいものをたくさん発見し、自分の感覚をもっと信じられるようになるでしょう。
11月半ばからトリニティに記事を書いています。そちらと重なるものもありますが、ご覧いただけたら嬉しいです。いいね!クリックも、ぜひ!よろしくお願いいたします。
「見るということは、はっきりとした情報です」 私たちは、毎日たくさんの情報が交差する中で暮らしています。 人から何かを伝えられた時、「それはどのくらいの大きさ?」とか、「それであなたはどう感じたの?」とか。 聞いた情報をもとに想像をして、内側で視覚化をしていきます。 たくさんの情報を受け取って、細かくイメージを作り出していきますが、情報が多くても、イメージはやはりはっきりとはしません。
ところが、100を聞いたとしても、やはり、ひとめ見た時の情報にはかないません。 見るというのは、はっきりとした情報です。
「見るということは、ほんとうに正しいものなのでしょうか?」 ところがこの見るという行為、私たちはあまりにも見ることに重きを置き過ぎています。 自分が今見ているものに対して、あるがままに見るのではなく、過去の誰かの投影、過去の出来事の投影、ニュースで見た映像や、過去の体験での投影などなど、さまざまな過去のデータを同時に重ねることをしています。 今見ているものに対して、今、感じるままにみるのではなく、今ではなく、過去を投影してみています。
例えば、初めて会う人が目の前にいるとき、この人はこんな服を着ているけれど、以前の職場の苦手な先輩がこんな感じの服装をよくしていたな。 この人も口うるさいかもしれないとか。 高価な宝石やブランド物を身につけているから、権威のある人かも知れないからとついかしこまってしまったり。 反対に、着古した体操着のようなものを着ているから、生活が苦しくて困っている人かもしれないと、蔑んだ目で見てしまったり。 自分には手が出ない、憧れている物を持っているから、人生で成功している人に違いないとねたみを感じたり。 人を見るとき、自分の中の誰かのイメージや、過去に抱いたイメージを重ね合わせて、その人を判断しようとしていますが、その見方は、本当にその人を見ているのでしょうか? 見るということは、ほんとうに正しいものなのでしょうか?
「見ることを超えた感覚とは」 少し前に、とても面白い体験をしました。 30名ちょっと集まったワークショップでのこと。 隣り合った人とペアになり、どちらかがアイマスクをつけて立ち上がり、アイマスクをしていない方と手をつなぎ、ぶつからないように誘導して歩くというもの。 私が先にアイマスクをつけました。隣の方とは初対面です。 すると、歩こうにも足が前に出ない。 手をつないだこの隣の方が信用できないわけではないけれど、知らない場所を見えないままあるくことが、自分の中で怖さを感じていました。 何が怖いのか? ころんでも室内ですからケガをすることはないだろうし、ぶつかっても室内の壁です。 それに、そうならないようにパートナーはちゃんと見てくれているはずです。 「あ、歩けない。進みたくない。」 そう思ったときに、「そうだ!私は五感の中の視覚だけを使って、今ここを体験しようとしていたのだ。 視覚が閉ざされたために困ってしまっただけで、よしっ他の感覚を使おう」と試してみました。 耳、鼻、身体の内側と外側に感じる気とに意識を向けて広げていくと、内なる感覚が浮上してきました。 どの辺りに壁があるのか、どのあたりを他の人たちが歩いているのか、ホール内のすべての存在と動きが感じられてきました。 もう、足はすいすい前に出て早く歩けます。 目が見えない人たちは、この感覚を使っているのですね。 私たちは、目が見えるために、この感覚を使うことを忘れてしまっていたことを思い出しました。 見ることを超えた感覚とはこのことです。
「内側で感じるものは、意識で見ています」 手をつないでくれているパートナーは、温かく誠実な波動が感じられました。 さきほどアイマスクをする前に挨拶をしたときは、硬い感じの事務服的な服装に、この人の内面を感じることを忘れていました。 パートナーはその優しい柔らかい波動をもっているのに、この服装では本来の彼女が表現されていないなと感じました。 服装は第一印象を決めてしまいます。とても大事だけれど、それによって、本来の純粋なその人を見ることを忘れてしまわないようにしたい。 「百聞は一見にしかず」だけど、目に力を与えない在り方をしたいものです。
さて、アイマスクで目を覆いながら、自分の感覚にさらに意識を向けていきました。 内側で感じるというのは、内側で映像を見ているのではありません。感覚で見ているのです。 このあたりの表現が難しいと感じるのですが、物質として存在する前の波動を感じるのです。 すると、色もわかります。色も波動をもっています。 ピンクは、やわらかくてふわっとした波動です。 黄色は、きりっとして生き生きした感じがします。 紫の落ち着いた穏やかさや、白色の、意識のどこにも押される感じがなく溶けるような感じなど、色の波動を感じながらホール内を感覚で見ていきました。 鉄の波動、カーペットの波動、木の波動と。 この世界にあるすべてのものに波動があります。 目で見ることに重きを置いてしまうと、そのものの本来の波動を感じることを忘れてしまいます。 内側で感じるものは、意識で見ています そして、私たちは普段それを使っています。 例えば、両親が喧嘩、または家族の誰かが喧嘩していたとき、家に帰って玄関に入った瞬間、 「嫌な感じ、ピリピリし空気がある、喧嘩したんじゃないかな」などと感じることがあると思います。 その場にある空気を読むことをしていると思います。
ネガティブな波動は見つけやすいものです。 「嫌だな」という感覚で発見できるからです。
私たちの内なる感覚をネガティブな波動の発見にとどまらず、あらゆるものに向けることができたら、私たちはもっと、純粋にそこにあるものを感じられ、楽しめます。 にせものと本物もすぐにわかります。
目で見ることは大切ですが、同時に自分の感覚すべてを動員して、もっと世界を感じてみてください。 きっと、美しいものをたくさん発見できると思います。 そして、自分の感覚をもっと信じられるようになります。 すべてのものは波動でできています。 「百聞は一見にしかず」だけど、目に力を与えない在り方をしよう。
TRINTY にてブログを書き始めました。こちらもぜひ読んでいただけたらと思います。よろしくお願い致します。
12月11日(金)〜13日(日)富士山にてボブ・フィックスによるラブマントラ宿泊ワークショップを開催します。
お申し込みは、高見澤まで。お待ちしています。
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ONENESSに還ろう- I am Healing 通信 vol.121
11月半ばからトリニティに記事を書いています。そちらと重なるものもありますが、ご覧いただけたら嬉しいです。いいね!クリックも、ぜひ!よろしくお願いいたします。
「見るということは、はっきりとした情報です」
私たちは、毎日たくさんの情報が交差する中で暮らしています。
人から何かを伝えられた時、「それはどのくらいの大きさ?」とか、「それであなたはどう感じたの?」とか。
聞いた情報をもとに想像をして、内側で視覚化をしていきます。
たくさんの情報を受け取って、細かくイメージを作り出していきますが、情報が多くても、イメージはやはりはっきりとはしません。
ところが、100を聞いたとしても、やはり、ひとめ見た時の情報にはかないません。
見るというのは、はっきりとした情報です。
「見るということは、ほんとうに正しいものなのでしょうか?」
ところがこの見るという行為、私たちはあまりにも見ることに重きを置き過ぎています。
自分が今見ているものに対して、あるがままに見るのではなく、過去の誰かの投影、過去の出来事の投影、ニュースで見た映像や、過去の体験での投影などなど、さまざまな過去のデータを同時に重ねることをしています。
今見ているものに対して、今、感じるままにみるのではなく、今ではなく、過去を投影してみています。
例えば、初めて会う人が目の前にいるとき、この人はこんな服を着ているけれど、以前の職場の苦手な先輩がこんな感じの服装をよくしていたな。
この人も口うるさいかもしれないとか。
高価な宝石やブランド物を身につけているから、権威のある人かも知れないからとついかしこまってしまったり。
反対に、着古した体操着のようなものを着ているから、生活が苦しくて困っている人かもしれないと、蔑んだ目で見てしまったり。
自分には手が出ない、憧れている物を持っているから、人生で成功している人に違いないとねたみを感じたり。
人を見るとき、自分の中の誰かのイメージや、過去に抱いたイメージを重ね合わせて、その人を判断しようとしていますが、その見方は、本当にその人を見ているのでしょうか?
見るということは、ほんとうに正しいものなのでしょうか?
「見ることを超えた感覚とは」
少し前に、とても面白い体験をしました。
30名ちょっと集まったワークショップでのこと。
隣り合った人とペアになり、どちらかがアイマスクをつけて立ち上がり、アイマスクをしていない方と手をつなぎ、ぶつからないように誘導して歩くというもの。
私が先にアイマスクをつけました。隣の方とは初対面です。
すると、歩こうにも足が前に出ない。
手をつないだこの隣の方が信用できないわけではないけれど、知らない場所を見えないままあるくことが、自分の中で怖さを感じていました。
何が怖いのか?
ころんでも室内ですからケガをすることはないだろうし、ぶつかっても室内の壁です。
それに、そうならないようにパートナーはちゃんと見てくれているはずです。
「あ、歩けない。進みたくない。」
そう思ったときに、「そうだ!私は五感の中の視覚だけを使って、今ここを体験しようとしていたのだ。
視覚が閉ざされたために困ってしまっただけで、よしっ他の感覚を使おう」と試してみました。
耳、鼻、身体の内側と外側に感じる気とに意識を向けて広げていくと、内なる感覚が浮上してきました。
どの辺りに壁があるのか、どのあたりを他の人たちが歩いているのか、ホール内のすべての存在と動きが感じられてきました。
もう、足はすいすい前に出て早く歩けます。
目が見えない人たちは、この感覚を使っているのですね。
私たちは、目が見えるために、この感覚を使うことを忘れてしまっていたことを思い出しました。
見ることを超えた感覚とはこのことです。
「内側で感じるものは、意識で見ています」
手をつないでくれているパートナーは、温かく誠実な波動が感じられました。
さきほどアイマスクをする前に挨拶をしたときは、硬い感じの事務服的な服装に、この人の内面を感じることを忘れていました。
パートナーはその優しい柔らかい波動をもっているのに、この服装では本来の彼女が表現されていないなと感じました。
服装は第一印象を決めてしまいます。とても大事だけれど、それによって、本来の純粋なその人を見ることを忘れてしまわないようにしたい。
「百聞は一見にしかず」だけど、目に力を与えない在り方をしたいものです。
さて、アイマスクで目を覆いながら、自分の感覚にさらに意識を向けていきました。
内側で感じるというのは、内側で映像を見ているのではありません。感覚で見ているのです。
このあたりの表現が難しいと感じるのですが、物質として存在する前の波動を感じるのです。
すると、色もわかります。色も波動をもっています。
ピンクは、やわらかくてふわっとした波動です。
黄色は、きりっとして生き生きした感じがします。
紫の落ち着いた穏やかさや、白色の、意識のどこにも押される感じがなく溶けるような感じなど、色の波動を感じながらホール内を感覚で見ていきました。
鉄の波動、カーペットの波動、木の波動と。
この世界にあるすべてのものに波動があります。
目で見ることに重きを置いてしまうと、そのものの本来の波動を感じることを忘れてしまいます。
内側で感じるものは、意識で見ています
そして、私たちは普段それを使っています。
例えば、両親が喧嘩、または家族の誰かが喧嘩していたとき、家に帰って玄関に入った瞬間、
「嫌な感じ、ピリピリし空気がある、喧嘩したんじゃないかな」などと感じることがあると思います。
その場にある空気を読むことをしていると思います。
ネガティブな波動は見つけやすいものです。
「嫌だな」という感覚で発見できるからです。
私たちの内なる感覚をネガティブな波動の発見にとどまらず、あらゆるものに向けることができたら、私たちはもっと、純粋にそこにあるものを感じられ、楽しめます。
にせものと本物もすぐにわかります。
目で見ることは大切ですが、同時に自分の感覚すべてを動員して、もっと世界を感じてみてください。
きっと、美しいものをたくさん発見できると思います。
そして、自分の感覚をもっと信じられるようになります。
すべてのものは波動でできています。
「百聞は一見にしかず」だけど、目に力を与えない在り方をしよう。
お知らせ
TRINTY にてブログを書き始めました。こちらもぜひ読んでいただけたらと思います。よろしくお願い致します。
12月11日(金)〜13日(日)富士山にてボブ・フィックスによるラブマントラ宿泊ワークショップを開催します。
お申し込みは、高見澤まで。お待ちしています。
12月22日(火)
12月25日満月(金)